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東北、フクシマを見に行こう、そして考えよう
‐東日本大震災文化的復興プロジェクト@つくば‐

活動報告report

南相馬市を訪問しました(夏期休業中)

先日9月22、23日に「第四回目のみにぷろ被災地視察」として
福島県南相馬市を訪れました。

ペーパードライバー+無免許という万全の体制の下、レンタカーでつくばから南相馬まで福島市経由で八木沢峠を越えて行き、帰りは開通したてで今話題の国道6号線を通ってつくばへと戻りました。
自動車だとすみずみまで巡れていいものですね。
...
簡単に旅の様子を書きますと、
一日目の夜に南相馬に着き、小高区「浮船の里」さんの久米さんに浪江や小高の街を案内してもらった後、お話を伺いました。久米さんのエネルギーに終始圧倒されると同時に目からうろこが落ちっぱなしのひと時でした。
その後、宿泊先である南相馬市鹿島区の「農家民宿 翠の里」さんに移動し、美味しい食事(ものすごい量!)と楽しいお話を楽しみ、その日は終了。
翠の里の奥さんが染物を嬉しそうに見せてくださったのが印象的でした。原発事故以降、農作物への不評被害が起こった以降染物を始めたとのこと。ここでも新たな取り組みが始まっていました。

二日目は宿を出た後、鹿島区の津波被害のあった沿岸を巡り、その後相馬の道の駅でお世話になっている佐藤さんと少しお会いした後、相馬市の「報徳庵」さんで相馬のおんちゃま、高橋さんのお話をおいしいお魚の定食をいただきながら伺いました。ここでも強烈なおんちゃまのパワーに大学生4人は洗礼をうけるごとく、刺激的な時間を過ごしました。
そうして南相馬の市街を巡りながら、帰路につきましたが、帰りがてら車窓から見える国道6号線の景色に愕然としたり、富岡の街を見たりさせていただきました。

二日間を通して、「被災地」で生きる人々の力に大いに勉強させていただきましたし、自分の目に映った光景を通して個人個人の「考える」材料をたくさんいただきました。
強く思うこととして、今確かにこの国で、起きていることなのに記憶がすこしづつ風化し始めていることがただただ恐ろしいです。これから社会を担う(??)若い私たちこそしっかり認識しないといけない光景であり事実だと思います。
しかし写真を見たり、映画やテレビのドキュメントを見るだけだと伝わらない部分があまりにも多いです。それにかなり一方的な物語が多いような気もします。(一個人の意見ですが)この文章だって、どんなに詳しく書いても多くは伝わらないと思います。
なのでやはり多くの人に自分の目で、現場を見てもらいたいと強く感じます(特に若い学生)。
地道にまた企画しますので、行きたい人一緒に行きましょう。

…さてまたもや長くて堅い真面目な文章(これでもだいぶラフに書きました)になってしまいました…また怒られますね(苦笑)
それでは、以上報告でした!

最後になりますが、大幅に遅刻したのに笑顔で迎え入れてくれました久米さん、翠の里の小倉さんご夫婦、佐藤さん、おんちゃま高橋さん、その他の二日間でお世話になったみなさまありがとうございました。

単純に楽しいから、行きたいから、また行きたいと私は思います。

(文責、山下)

(写真①)「農家民宿 翠の里」さんの朝食。美味。

(写真②)翠の里で飼っているニワトリ。某参加者はこの鳴き声で眠れんかったとか

(写真③)南相馬市鹿島区八沢浦の山田神社から海を眺める。津波の被害が大きかった地区です。

(写真④)JR小高駅、南相馬市小高区は避難区域に指定されていて、居住はできません。まだこの駅も閉鎖中。そんな駅の夜の姿。

(写真⑤)JR富岡駅、津波の被害が大きく閉鎖中

(写真⑥)翠の里のふすまの絵、ユーモラスでいい表情。有名な画家さんが書いたものだとか

(写真⑦)国道6号線で大熊町に入る時

(写真⑧)国道6号線で双葉町に入る時

(写真⑨)国道6号線沿いの大熊町の様子、バリケードがしてあって異様な雰囲気。もちろん、入れないし。車は一時停止もできない。

     

講演会を開催しました

6月5日木曜日放課後、みにぷろ主催の2時間30分にわたるトークイベントを開催しました。南相馬で地域復興に尽力されている星さんと佐藤さんをお呼びし(詳細については、いちばん星南相馬プロジェクト様を参照)、オーガナイザーの山下が司会を務め、主に被災地の現状と復興について語り合いました。

前半はみにぷろの活動紹介から始まり、星さん、佐藤さんからお話を頂戴しました。
震災発生当時の状況から、いちばん星の沿革、復興の現状まで……南相馬市の伝統行事、馬追のお祭りについてなどにも触れられ、幅広い内容のトークタイムでした。その内容についてこちらで細かくお伝えすると字数が多くなってしまいますので省きますが、ひとつ印象的だったのは、物質的な支援による復興より、文化的・精神的な側面の復興について強く星さんが主張されていた点です。"支援され、頼る"パッシブな状況から、ポジティブな復興の動きに変わっていく必要がある、というお話―現地の方の口からでなければ、普段私たちの日常の中では触れることすらないものではないでしょうか?

休み時間を経て、後半はお越しいただいたみなさまからの質問・意見と山下・みにぷろのそれを合わせて、質疑応答形式を取りました。
特に多かったのは、「私たちに何ができるのか?」という質問。星さんたちの回答は「とにかく一度、現地に来て下さい」というものでした。そこから考えてほしい、と。「今、若い人たちのアイデアが必要だ」ということを、繰り返しおっしゃってもいました。
また、「復興ってなんだろう?」という山下の質問に対して、「元通りになることではない」という答えも。
みにぷろの姿勢に通じるところが多くあります。私たちもまた、"まず見に行き、考える"ということを指針において活動をしております。
支援される復興から、築いていく復興へ。新しいアイディアを必要としている今。ただ戻るのではない、新しい形へと進む復興。前半後半を通じて、エネルギッシュなお二方からのお話に、私たちもまた励まされるところがありました。
これからの復興は、応援することではなく、参加することによって為されるものなのではないでしょうか? 短い時間ではありましたが、3A202教室で感じた復興の風を受けて、私たちはもちろんですが、お越しいただいたみなさまもそのモチベーションが上がったことだろうと思います。
もし、これを機に「一度現地に行ってみたい」と思った方がいらしたらぜひご連絡下さい。みにぷろが全力でサポートいたします。私どももまさにここで、見に行き、触れることの重要性を再確認したところです。
重い腰を上げて被災地の大地を踏んで、ひたすら考えて出したひとつの考え・アイディアが、これからの大がかりな復興の嚆矢となるかもしれません。
最後に、星さん佐藤さんそして参加者のみなさま、ご多忙の中、また雨天にもかかわらず、お越しいただきましてありがとうございました。

いわき市訪問

4月29日、第二回目の被災地訪問は、いわき市でした。前回より増え、メンバーは総勢17名! 賑やかな訪問となりました。
いわき市、こと私たちが訪問した富岡町近辺は原発の近くにあり、帰宅困難区域となっています。そのため、震災時の状況がそのまま残されていました。

上の写真は倒壊家屋、震災後まもなく止まった時計、そして……住民の避難後、いたずら書きされた車です。
さて、みなさん、これを見てどう思われますか?
私は、いたたまれない、という言葉がそのときの心情を伝えるに最も適切な言葉だと思います。ただ"地震"によって付けられた爪痕なわけではない、ということが、ひしひしと伝わってきました。放射能の影響で、入れない。入れないから、復興できない。誰もいないから、いたずら書きもある。
全て、人がもたらしたものです。震災という自然災害によって破壊された世界に、人の闇のようなものが看取される。この経験は、今、いわきに行かなければ得られなかったものだと思います。私は一生忘れないでしょう。一人でも多くの人にこの光景を見てもらって、考えて欲しいと思うのです。原発を非難しろ!とか、そういう思考の強制ではないのです。向き合ってなにかを思って欲しい。遠くにいる人々の、心の中でだけ風化している震災という単語に再び息吹がもたらされ、「ああ、だめだったなぁ」ではなく「これからどうすっかね」と考え始める―それも立派な復興だと私は考えています。

ショッキングだなぁ、と「閉じる」ボタンを押しかけたそこのあなたに、この写真をご覧に入れたいと思います。

列車が入るどころか、駅舎とすら認めがたい、かつての富岡駅に咲いていた花です。
震災からずっと咲かなかった花だそうです。今春、ようやく咲いた花。
正直、私はこの花が、生をうけて19年、一番美しい花であったように思います。唖然として凄惨な光景を歩くと、こんな奇跡も見えてきます。3年目の花―これを見ると、またこの場所に、3.11以前と同じ、いや、それ以上の灯りが灯せるような、そんな気がしました。

最後には、仮設の施設で再興した、商店街にも訪問し……
被災地を訪れるということは、闇を見ることでもあるし、光を見ることでもあります。
どちらも、忘れてはならないことでしょう。太平洋戦争が日本にとって決して忘れてはならない記憶であるのと同じように、東日本大震災とそれにまつわる幾多の出来事もまた、忘れられてはならない記憶です。
問題はそれに、何を思うか!?

いわき駅のそれのような、復興商店街のような、花を見つけ、その奇跡を忘れず、育み、広げ、愛することを忘れない―私はそれが、一番大切なことだと思います。
これからもみにぷろは、被災地を回って行きます。これを読んで少しでも関心を抱いた方は、ぜひ次回、一緒に旅立……いや、帰ろうではありませんか。あの日、たしかに全ての日本人が震撼し、どこかで数々の奇跡にも涙した、あの世界へ。変わりつつある東北が、あなたをきっと、生の温もりへと誘ってくれます。


南相馬

南相馬のメンバーの各コメントを掲載いたします。

それでは今回のみにぷろの参加者として……… 私の行った被災地(南相馬市)は思ったほど悲惨ではないし暗くないし、普通の1つの町でした。 しかし、ミクロな部分(原発作業員が使用するお風呂など)を見ると"震災"はしっかりと残っています。 ただ、それが非常に細かいのです。
実際に行って体験してみないと分からない、そう感じました。 言葉による伝達の限界を感じました。 現時点の感想はこのようなとりとめもない状況ですが、落ち着いて自分の中に落としこむことで自分なりの考えを確立します! 長文駄文失礼いたしました。(パーティシパント、森 拓也)
今回行ってみて感じたことの中でここに一つ書きたいのは、南相馬市の多様性です。行く前は、南相馬に対するイメージはぼんやりとしたものでした。思い浮かべられる人もいないし、風景も前報道されていた、震災後のぼやっとしたものでした。
だけど実際に行ってみて原町、小高、鹿島など、まちの空気に触れたり、仮設住宅の集会場でそこで暮らしている人たちと交流してみて、また一番星という民宿の佐藤さんに南相馬市を案内していただいて、一面的なイメージは全く変わりました。
帰ってきてから南相馬での経験を思い出していたのですが、今思い浮かぶのは、雨に濡れながら見た海辺の景色であったり、仮設住宅の集会場でお話しした眼鏡をかけたいい笑顔のおばさんの表情であったりします。
震災の前にはずーっと生活があり、その後も今まで毎日そこで人は暮らしています。報道ではわからないこと、忘れてしまうこと、心に残ったつもりでもそうではないことがあることを強く実感しました。当たり前ですが福岡出身の自分はあくまで外の人間なんだ、とも。
少し長くなりました。今は考えがよくまとまりません。後でしっかりまとめて書こうと思います。とりとめのない文章ですいません。まとめると行く前と後とでは自分の中で南相馬が占める場所とか正確さが全く変わりました。(参加者、藤木耀)

今回のみにぷろで私が少しでも得たものは、被災地に関する具体的なイメージだと思います。現地にいくまで、「被災地」にひとが全然いなくなって寂しいところなのかなと勝手な抽象的想像を巡らすのみでした。
でも、福島から帰りもう一度「被災地」という言葉を思い浮かべたとき、福島でみた駅前、海岸部、仮設住宅の景色やそこでお話ししてくれた方々の笑顔、一番星の星さんご夫婦や佐藤さん、菅野さんが一緒に思い起こされます。
福島にもう一度会いに行きたい人ができたこと、「見に行こう」から「会いに行こう」に変わったことは自分の中の大きな変化でした。
福島に行く前、私は震災を身近に感じられずどこか遠い場所の知らない人のことのように感じてしまうことがあり、その感覚が負い目でした。現場を見たら変わるかもしれないと思い参加しましたが、それは訪問を終えた今も変わりません。第三者であることは変えられません。
しかし、福島を実際に訪れ、日常の一部分に触れ、そこで生きている人に出会うなかで震災について考えるきっかけの種を沢山もらえたなぁと振り返って思います。いまの自分の立場や感じ方を無理に変えずにここから考えられることもあるんだと感じるようになりました。
見たこと聞いたことに対する自分の中での感想がまだまだ追いついていないので、とにかく今感じることを投稿してみます。これから改めて整理します。二日と少し、関わってくださった人、もの全てに、感謝です(参加者 小泉奈桜子)

実際に行ってみた現地は、もちろん震災の爪痕を未だに生々しく残していますが、僕が強く感じたのは全部が全...部、いつまでもいつまでも傷ついているわけではないということでした。いろんな人がいて、いろんな場所があって、僕が見たのはほんの断片に過ぎませんが、こちらが元気になってしまうような明るさを現地の方からもらったり、少しずつ復興しようとしている街を見るとそう思わずにはいられません。
また同時に今復興にむけて頑張ろうとしている人々、街そのものに対して自分が何ができるかを深く考えた旅でもありました。
震災から明日で3年。もう3年経ったからこそ、僕個人としては普通の人には一歩を踏み出しにくいようなボランティアだけでなく、ただ行ってみてそこから何かに繋げることが必要になってきたように思います。もう3年経つと少しずつ震災があったという事実が、同時代的に体感した僕らの世代にとって当たり前のこととなり、なかなか考えられることも少なくなってきたような気がします。だからまずはただ行ってみて問題を自分の側に引き寄せてみることが大切なのではないでしょうか。
つらつらと思うままを書いてしまい、これを読んだ人は意識高い系()なんて謗るかもしれませんが、真心でやっているのみです。では、失礼します。
最後に、旅自体はものすごく楽しいものでした。
農家民宿をやられているいちばん星さんの星さんや佐藤さん、高田さん、菅野さん、たくさんの方にお世話になりました。やはり人とのふれあいが大好きです。仮設住宅で出会ったおじいさんおばあさんたちの笑顔も忘れられません。(山下文雅)


震災後から今まで、被災地に行って何かしたいという思いはあったのですが、なかなか実行に移せずにいました。長い大学の春休みを利用し一人で行くことも考えましたが、学類の友人が企画した活動が自分と合っていると感じ、参加しました。
自分とは違う視点を共有でき、考えさせられるような、いい企画だったと思います。
訪問では、多くの人にお話を伺う機会があり、震災の影響で生活や人間関係が大きく変化した様子を見聞きしました。現地の方の率直な感情を直接聞くのは大きな衝撃であり、何度もやるせない気持ちになりました。
そんな中、お話を伺った方々が、少しずつでも現状を変えていこうとしている姿がとても印象的でした。震災に関する問題は未だ多く、解決にも時間がかかりますが、これからも何かの形で応援していけるといいです。
最後に、プランナーの山下くんをはじめ、一緒に行った皆さん、現地でお世話になった皆さん、本当にありがとうございました。いい旅でした。(上條英)

案内をしてくださった方の仰っていた「東京オリンピックが来たら(建設関係の人、モノが東京へ流れて)福島が終わる」という言葉が印象的でした。
そして写真は載せませんが、仮設住宅の方々とも交流。三年経ち、うつむいてばかりじゃいられないという方もいらっしゃいました。…ただ、見てそこから考える。そんな関わり方です。(大木)

一日目は夕方に現地に到着し、今回お世話になった「いちばん星」さんという農家民宿のオーナーのご友人の方からお話を聞きました。
震災当時や現在の状況について話を伺って心に浮かんだことが三点ありました。
①現在の南相馬市が抱えている問題はとても大きなもので、個人にはどうしようもない
②放射能について(自分を含め)知らない人が多い
③心のどこかで被災地を「被災地だから」として特別視していなかったか

①について。南相馬市は小高区が警戒区域に指定されていたり、津波の被害があったりと何重にも課題が積みあがっています。南相馬の人たちですら個人ではどうにもならない問題ばかりです。では、県外の人である私は何ができるのか。その答えは帰ってきた今もはっきりとはつかめていません。
②について。お話を伺った方や民宿のオーナーの方は放射能についてとても勉強され、理解されていました。お話を伺いながら、私はどのぐらいの数値が高いのかすらわからず自分の勉強不足を痛感しました。話をすり替えるわけではないですが、私のような人は全国で圧倒的多数を占めていると思います。大した知識もないのに(ないからこそ)マスコミの(過剰な)報道におどらされているのでは、と思わずにはいられませんでした。
③について。これはこの二日間を通して一番思ったことでした。南相馬に降り立って最初に思ったのは、「普通の街だな。」ということです。至って普通の街なのです。地域の方の話を聞くと、これからのこと、十年二十年先のことについて話す方が多くいらっしゃいました。もちろん、除染や警戒区域、仮設住宅や津波対策の問題など目下直面している問題は山のようにあり、日常生活の一歩先は非日常です。意識的ではないにせよ、どこかで被災地を「被災地」として括ってみてしまっていた自分を反省しました。あれから3年も経てば復興支援のあり方も変わっているのは当然のことです。
二日目は仮設住宅を訪問しました。住まわれている方とお話していると、なんでもない会話をしていても気づけば震災の話につながっているのが印象的でした。私が訪問したところは外観がログハウスのような暖かみのあるもので、ペイントが施されているところもありました。しかし、窮屈さはぬぐえないと感じました。
午後には南相馬市内や浪江町の方まで案内していただきました。津波の被害に遭ったところに降り立つと、ただただ景色が広がるだけでした。だだっ広い土地にぽつぽつと木が残っているばかりでした。また、警戒区域となっているエリアでは建物ばかりが並び、人の気配がないだけでこんなに恐ろしいのかと思いました。
長々と書いてきましたが、もっと思ったこととか感じたことはあるのにそれが頭の中でぐるぐるしてそれ以上言葉にならないのが現状です。
先ほど③にも書いた通り、人々が日常生活を送っているなか、部外者(今のところはこうとしか呼べない)が「被災地」を意識しすぎているのでは、と強く感じました。もちろん、震災で津波や原発の被害があったことは事実ですし、今までの生活やコミュニティが崩壊してしまったことも事実です。風評被害も広がる中、現地を訪れることは、現状を生で知るという意味で大賛成です。一方で、そうした訪問活動やボランティアが部外者の一種の優越感の表れに私は思えてならないのです。「かわいそうだねー」とか「大変だったね」とか、無意識にでも思ってしまうんです。結局は「上から目線」にすぎないんです。だから、今回のことをこうやってSNSに挙げている自分の行動についても書きながら疑問符が浮かんでいます。この二日間ずっと悩んでいましたが、答えは出なさそうです。けれど、こういうことを考えるようになったのも、現地に行ったからです。テレビの中の世界と現実のギャップは、現地に行くことでしか埋められないのだと思います。
今度は、宮城県や岩手県にも訪れたいです。(須藤茜)

理解できないものは、怖い。
私たちは、放射線を見ることができない。
私たちには、被災者の悲しみの大きさは計り知れない。
なにもない原野に、街があったことを、私たちは感覚できない。失われたことを、人から聞いて初めて知る。
避難や移住の流れの中で半ばゴーストタウンと化した街に、活気が溢れていたことなど、想像もできない。
私が被災地で出会った人たちは、みんな笑顔で、明るかった。3年という時間を経て、”理解できないもの”に恐怖し、ただ避けている自分よりも、彼らの方が、よほど精神的に復興していた。
ようやく人が入り始めたスポーツセンター、仮設校舎の実態―そこにいるひとの気持ちは、やっぱり表面的にしか理解できない。けれどそこに、復興への希望とか、意志とかいったものを、私はたしかに感じることができた。私はそんな福島が、好きだ。
好き―というのは強い。完全に理解できないものでも、人は好きになることができる。
みにぷろ!に行って一番よかったことは、原野を生で見られた、とか、人と交流して元気を分け合った、とか、いろんなことを学んだ、とか―そんなことではない。福島を、好きになったことである。
好きになれば、大切にすることができる。支えたいと、欲することができる。理解できない、怖さを凌ぐ想いがある。
私は、福島を好きになれた。だから本当に、行ってよかったと思う。
そうさせてくれた全てのひとに、感謝の言葉を贈りたい。ありがとう。   (八代翔)


みにぷろ

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